2008年2月17日日曜日

ロシアの詩聖 プーシキン 余話(2) アンナ・ケルン

公演で毎回詩の朗読にもとりあげております「アンナ・ケルンへ」。プーシキンの詩の中で人口に膾炙されたもののひとつですが、いったいどんな女性だっだのでしょうか?本名 Anna Petrovna Kern(1800年ー1879年)。1800年のロシアのアリョール市に貴族の一族に生まれ、ウクライナで少女時代を送ります。17歳のときに、親の決めた56歳のナポレオンとの戦争で活躍した将軍に嫁ぐことになりました。そのときの心境を彼女は、「話をするのもいやな相手でしたが、父の意向(結婚)に逆うことはできない家庭でした。」と後に振り返ったそうです。

結婚とともに首都ペテルブルグに移り、そこで彼女の親族であるアレーリン家のサロンでプーシキンを知り合ったといわれております。初めての出会いから6年後、プーシキンが蟄居させられたミハイロフスコエ村の隣の地に 親族をたずねたアンナ・ケルンと再会いたしました。当時プーシキンは、「エフゲーニイ・オネーギン」の出筆の最中で、アンナが夫の赴任地であるリガに旅たつその朝、 「エフゲーニイ・オネーギン」の予稿に「アンナ・ケルンへ」のこの詩をはさんで手渡しをしたといわれております。そしてその後二人の間には文通がはじまり、その関係もあり、1826年にアンナは、離婚することになったようです。

アンナには、前夫の間に二人の娘がうまれましたが相次ぎなくなり、かつ最愛の母も失い、憔悴の限りのアンナをプーシキンは精神的に支えたといわれております。1837年にプーシキンがこの世を去ったとき、アンナは深い絶望の中に陥りましたが、20才年下の遠縁のいとこのアレクサンドル マルコフービノグラツキーと 知り合い、父親の反対を押し切り、その後40年、困窮した生活の中でも幸福な家族生活を送ったといわれております(父親は、彼女に勘当を申し渡し、一切の経済的な援助をしませんでした)。

彼女が、1879年春、 モスクワの息子の家で、病の床についているとき、「プーシキンの大理石の像」が運ばれ、街頭を多くの人が歩く喧騒を病床で聞きつつ、「あー、やっとそのときがきたわ。もっと早くにこうならなければならなかったのに!」とつぶやきこの世を去ったとのことです。
参照文献: Anna Kern wikipedia

ご来場ありがとうございました (バリショエ スパシーバ)!


<ゴーリキー 乙女と死の朗読>

昨晩はプーシキンの詩研究会の催しに多くの方にお集まりいただきありが
とうございました。 地元我孫子、柏に加え、つくばや東京の世田谷などか
らも お越しいただき、望外の喜びです。また、公演後、皆様より「もう少し
ロシアのダンスをみたい」「ゴーリキーの”乙女と死”のような朗読ははじめ
てで印 象的だった」などいろいろなコメントをいただきました。次回に開催
に向けて皆様のいろいろなお声にも応えられるようにしていきたいと思い
ます。

まだ如月の寒い日が続きますが、くれぐれもお気をつけてお過ごしくださ
い。そして是非、次回の公演で皆様とお会いできることを楽しみにして
おります。ダ・フストリーチェ(またお会いしましょう)!

*次回は、5月皐月の頃にと企画をしております。決定しだいこのブログ
  上ならびに個別にご案内をさせていただきます。

                              プーシキンの詩研究会