2011年1月24日月曜日

ロシアの詩人のご紹介 マキシム・ゴーリキー

マクシム・ゴーリキー1868年3月28日(当時ロシアで用いられていたユリウス暦では3月16日)-1936年6月18日)はロシアの作家。本名はアレクセイ・マクシーモヴィチ・ペシコフ。社会主義レアリズムの手法の創始者であり、社会活動家、「どん底」という有名な劇作家と申し上げるとご存知の方もおられるかもしれません。
今は、彼の名前を冠した公園がモスクワにゴーリキー公園として残っております。ここはオリンピック会場にも程遠くないモスクワの中心部です。

1868年、ニージニー・ノヴゴロド(1932年から1990年までゴーリキー市と呼ばれていた)に家具職人の子として生まれ。母を10歳でなくし、孤児となった後、話が上手であった祖母に育てられましたので、祖母の死は彼を深く動揺させ、1887年の自殺未遂事件の後、ロシアの各地を職を転々としながら放浪することになりました。

その後、地方新聞の記者となり。ゴーリキーを名乗り小説家として1890年ごろには、、一躍人気作家になり、すでに名声を得ていたその名声はたちまちアントン・チェーホフやレフ・トルストイと比されるまでになった。1902年、代表作である『どん底』を発表。『どん底』は、翌1903年にはベルリンで上演されるまでになったのです。

1902年には科学アカデミーの名誉会員に選ばれるが、その急進的な政治的信条を理由にニコライ2世によって取り消された。この事件に対する抗議としてアントン・チェーホフとヴィクトル・コロレンコがアカデミーを辞任しています。1905年、ボリシェヴィキ組織に入り、レーニンと知り合います。彼は、1905年から1907年までの革命前には、レーニンの活動に巨額の援助をしたとされています。

第一次世界大戦の際には、ペトログラードのゴーリキーのアパートはボリシェヴィキの事務室になった。しかし、その後、共産主義に対するゴーリキーの考えは一変し、十月革命の2週間後の手紙にはこう書いている。「レーニンもトロツキーも自由と人権についていかなる考えも持ち合わせていない。彼らは既に権力の毒に冒されている」。1919年、レーニンはゴーリキーに宛てて書いた手紙に「君に忠告する。環境とものの見方、行動を変えるべきだ。さもなくば人生は君から遠ざかってしまうだろう」と書いている。1921年、結核の療養をきっかけにイタリアのソレントに移り住んだ。

しかし、ソ連時代に有名な作家アレクサンドル・ソルジェニーツィンの言葉を借りると、ゴーリキーは「イタリアでの暮らしに困って」ロシアに帰国することになりました。1932年にはスターリンの個人的な求めに応じてロシアに帰ったと言われています。

ファシスト政権のイタリアからゴーリキーが戻ったのは、ソビエト政府にとっては格好の宣伝材料となった。彼はレーニン勲章を受け、モスクワの邸宅(現在はゴーリキー博物館となっている)と郊外の別荘を贈られる。このとき、モスクワのトヴェルスカヤ通りがゴーリキー通りと改められ、生地のニージニー・ノヴゴロド市もゴーリキー市と改称された(1990年まで)。ゴーリキーはソビエト作家同盟を設立し、その議長に就任する。

1934年、セルゲイ・キーロフが死に、スターリンによる粛清が始まると、ゴーリキーは自宅に軟禁されるようになった。1935年、息子マクシム・ペシコフを亡くした翌年、1936年にモスクワで亡くなりました。両者とも毒殺された疑いがあります。「スターリンによる大粛清の嵐」が吹き荒れるソ連の時代にこの世を去ったわけです。

参考サイト wikipedia

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